自分のホロスコープについては、今まで、あれこれ思いを巡らせてきましたが、
肝心の「太陽」については、あまり興味を示さずにきていました。
たぶん、「私の太陽は、あまりおもしろくない。」と思っていたのと、
「蠍座」という星座にピンと来るものが、あまりなかったから、だと思います。
私のホロスコープの太陽、
「メジャーアスペクトが、天王星との合のみ」
という孤立状態なんです。
実際、太陽期はあんまり楽しくなかったです。
太陽期は、「ブラック企業をハシゴした後、どうにか上京」までで、幕を閉じてしまいました。
ぶっちゃけ、水星期とか金星期とかでは、結構モテてたんですけど(敢えての強調)、太陽期はさっぱりコーン☆でした。
もういっそ、アスペクトの豊富な火星期に早く入れ、って思っていました。
まあ、ある意味「情熱の赤い薔薇」に一番燃えていたのも、太陽期ですけど。
けれど、よくよく考えてみたら(いや、本当はよく考えるまでもないんだけど)、
ホロスコープで一番大切なのは、本来「太陽」なんですよね。
一般的に「あなたの星座、何?」って聞かれて答えるのが、太陽星座じゃないですか。
占星術をライトに落とし込んだ「星占い」で唯一残されたのは、太陽じゃないですか。
まあ、生まれ年関係なく、誕生日だけで大体解るから、ってのもあるでしょうけど。
最近、ツイッター上で「月星座」に関して議論がかまびすしかったですけれど、
中でもこちらの占星術師さんの、この投稿が胸に留まりまして、
基本的に一般の人は占星術自体には全く興味がない。時間もない。だから画一的で単純化された解説でも「当たってる」と感じやすい月星座占いが広まったのだと思います。しかし、月星座は幸運の鍵ではなくお気楽なもので、太陽の頑張りとセットならば癒やしになるけれど、月ばかりだと人生は停滞します。
— 竹内俊二 (@soranoiro333) December 28, 2018
「月星座は幸運の鍵ではなくお気楽なもので、月ばかりだと人生は停滞する」。
ああ、なるほどなぁ、と、妙に納得がいきました。
私は、月というのは、基本的な体質や体力、そしてエネルギー源だと理解しています。
月が傷ついていたり、穴が空いてガス漏れしたりしていると、エネルギーが湧かない。
どんなに理想を掲げても、月を蔑ろにしていては、力が発揮出来ず、叶うものも叶わない。
だから月は当然、大切にしなきゃいけない。
けれど、月はあくまで「動力炉」であって、人生の方向を決める「舵」ではない。
舵を握るのは、そう、「太陽」。
そして、それは即ち、自分のホロスコープの中の「リーダー」だという意味なのではないか、と。
それを忘れて、月ばかりに閉じこもっていては、まるで、こたつに入ってみかんを食べながら、テレビに向かって「最近の若いもんは〜」なんて言っているも同然なんじゃないか、と。
そして、太陽と向きあわなきゃ、と思ったきっかけがもう一つあります。
近いうちに、転職することになりそうなんです。
そしてそのきっかけが、またもこの「太陽と天王星の合」によって導かれた結果のようなのです。
今の職場は、上京したてで、右も左も分からない私にとって、厳しすぎず、ほどよく新しい経験もさせてくれた、いわば、「慣らし」のような場所でした。
ですが、この2年ほど、「上」が変わったことに伴って、不満が大きく蓄積しておりました。
そんな中、「普通だったら」黙って見て見ぬふりをしてやり過ごすであろうところを、
またも曲げられない魂に従うかの如く、疑問という一石を上に投じることに。
言わせて頂くなら、「投じざるを得ない状況」になったという方が適切です。
思えば、ピータン社を辞めた時もそうでした。
「普通だったら」のらりくらりと躱(かわ)すであろうものを、「言わざるを得ない状況」になぜか嵌まってしまう。
好きでやるわけではなく、なぜか立ち場がいつもそうなるんです。
この繰り返されるパターンに宿命を感じます。
今回は、その一石によって決定的な事はまだ起きていませんが、
こういった秩序の乱れや問題の噴出は経験上、「卒業のシグナル」であり、「次の場所への後押し」です。
魂をゴールに導く、その舵を取るのが太陽であるならば、
こんな風に厄介な波を選んでまで、船長は何を目指し、何を言いたがっているのだろう。
その謎が解ければ、人生の目的がもっと明快に見えるんじゃないか。
そして太陽にスポットを当てれば、いや、太陽の光を正面から受け容れれば、
こんがらがったホロスコープを統合する方法が解るのではないか。
そんなわけで、シリーズ「『太陽』を生きる」、ぼちぼち出航です。
(つづく)
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