初めて『原宿の母』に鑑定してもらったとき、
「あなたは月と海王星が90度だから、結構傷つきやすいのよ」
といわれました。
また、すず先生に初めて鑑定してもらったときにも、
「うーん、生きづらさがすごく出てるホロスコープ……」
といわれました。
そして私はそれがいずれも、とても“嬉しかった”です。
それまでかけられていた、
「あなたは大丈夫だよね」
という言葉は一見、褒め言葉なんだけど、場合によっては突き放されてるように感じる台詞でした。
大丈夫だよね、なんて言われても、私にだってねえ、いろいろあるんだぞ、と言いたくなるのだから。
誰だってそうさ 君一人じゃない
ひどく恥ずかしい事で でも逃げられない事で
そりゃ僕だってねぇ そりゃ僕だってねぇ本当に面倒な事で 誰にも頼めない事で
そりゃ僕だってねぇ
BUMP OF CHICKEN『プレゼント』
その詞を書いたBUMPボーカル藤くんは、月と海王星の60度持ち。
また、彼の海王星は太陽とも綺麗にトライン、さらには金星とスクエアをもっています。
ひと月ほど前に、漫才師で芥川賞作家でもある、又吉直樹さんのエッセイを読みました。
その中には、感情が顔に表れにくい又吉君が、周囲から、
「感情が欠落している」「まだ人造人間の方が感情が豊か」
などと言われてしまう、という話が書かれていました。
けれどこの本の中には、同時に彼が、
「眠れずに朝を迎えた」話、
「濾過しきれない悩みを池の亀に聞いてもらった」話、
「こんな大勢の知らない人達の前で自分がネタをする姿を想像すると身体が震えた。怖い。」と思った話が綴られている。
特に、「せきしろさん。せきしろさん。せきしろさん。」と三回呼びかけるくだりでは、
“名前というただの音”の向こう側ににじむ、あふれる感情がひたひたと伝わってきて、
私は毎回、なぜか、涙ぐんでしまいます。
この本に出会って私は、又吉君がとても好きになりました。
優しく美しく繊細な感受性を持っている彼が、こんな心のうちを綴った2年後、
芥川賞を受賞したということが、胸が一杯になるほどに嬉しいです。
傷つかないなんて、とんでもない。
感情が欠落しているなんて、とんでもない。
「図太いんだろ」「強いんだろ」「傷ついてないんだろ」って、
「あなたはいいよね、強くて」「あなたはいいよね、たくましくて」って、
そういう都合のいい解釈を昔から私は「不当な高評価」と呼んでいる。
そして、なんとまあ自分勝手な、と思う。
傷つきながらも笑ってかわしてる人なんて、この世にどれだけたくさんいるだろう。
「平気でしょ?」って、あなたが思いたいだけでしょう?
「あなたは図太いでしょ?」と恥ずかしげもなく言えてしまうあなたの感性こそ、
ああ、なんと図太く厚い皮膜に覆われていることか。
傷ついても、悲しくても、そのままうずくまっているわけにはいかないから、
痛くても、しんどくても、この体がなければ感じることが出来ないものを学びにここへきているから、
それが解っているから、怖くても、進んでいるだけだ。勝手なことを言わないでほしい。
そんなことを何度思ってきただろう。
そんなに怖いならやらなければいいじゃないかと思うかもしれないが、怖いことをやらなくて良いなら、僕はプールには入らなかったし、ラジオ体操にも行かなかったし、サッカーもやらなかったし、学校にも行かなかったし、人前にも立たなかった。もしかしたら僕は部屋から一歩も出られなかったかもしれない。怖いこと、イヤなことから時々逃げずに、たまにではあるが、試しにやってみたからなんとか生きてこられた。その先に、楽しいという感覚を得たことも一度ならずある。だから、何かから逃げようとしている自分に気付いた時、僕は出来るだけやってみることにしている。
又吉直樹『東京百景 下北沢CLUB Queの爆音と静寂』
又吉君のホロスコープには、月と海王星の30度がある可能性が。
(同時に、彼の月は冥王星とスクエア)
また、彼が敬愛する太宰治は、月と海王星のコンジャンクション持ちです。
月と海王星のコンジャンクションを持つ文豪といえば、夏目漱石もそう。
知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
とは、「草枕」の冒頭の一節。
(エラそうに引用したけど、読み終えてないからね、難しくて)
私はまだ「坊ちゃん」と「こころ」しか読んでいませんので、漱石を語ることは出来ません。
ですがこの、「とかくに人の世は住みにくい」の一言は、
「ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するやいなやうれしくなる。」
と並んで、ずっと頭にじんわり響いていました。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。
夏目漱石『草枕』
とかくに生きにくい人の世。
少しでも生きやすい場所に閉じこもり、その居やすさから出たくなくなるのは当然というもの。
けれど、人として生まれたからには、ただの人の世で生きるしかない。他に越す国は無い。
越すことが出来ぬのなら、ここを住みやすくするしかない。
そのときに、現れるのが、詩であり、画であり、束の間の夢であり、
―――それは全て、海王星が表すもの。
人間は、なにからなにまで詩につつまれて生活することはできませんし、またそんな純粋な世界ばかりで生きていたら、とても生きてはゆけないでしょう。チトのように、しまいには天使になって、雲の上にのぼってしまうことになるかもしれません。しかし、ほんとうに勇気をもって生きてゆくためには、詩がひつようなこともまたたしかです。
安東次男『みどりのゆび 訳者のことば』
フランスの童話、「みどりのゆび」の主人公チトは、とても美しく、賢く、そして優しい男の子。
ですが、チトは、どうしても学校に従うことができませんでした。
どんなに頑張っても、居眠りばかりしてしまうのです。
そのため、学校から、「ほかのお子さんと同じではないので、おあずかりいたしかねます」と、返されてしまいます。
しかし、ある日、チトはその右手の親指で触れた場所から、美しい花々を咲かせることのできる、『みどりのゆび』をもっていることを知ります。
美しいものは、時に、この世の痛みを麻痺させ、忘れさせてくれ、
それがあるから、私達は痛み多きこの世界をどうにか乗り越える事が出来るときがある。
「ほかの子と同じでない」と言われたチトの親指から咲いた花たちは、
町中を幸せにし、そして物語の終盤、その力で戦争を食い止めます。
チトの生みの親、モーリス・ドリュオン氏の月は、海王星の60度、キロンと180度を組んでいるようです。
あたしに、こんなに想像力があってしあわせだったわね。きっとすばらしく役にたつでしょうよ。想像力のない人が骨をくじいたときは、どうするのかしらね、マリラ?
と宣うのは、「赤毛のアン」の主人公アン・シャーリー。
作者のL.M.モンゴメリの場合は、月と海王星のアスペクトは見当たりませんが、金星が海王星とキロンとゆるくそれぞれトラインをとっており、また、海王星にはドラゴンヘッドが合しています。
モンゴメリ自身、美しいものに対しての感度は常人のそれを遥かに超えており、それら目に映る美しさを携えて空想の国に羽ばたき、さらに心の庭に広げる才能を彼女はアンを通して、これでもかと披露します。
全身これ「活気と火と露」のようなアンではあったが、人生のよろこびも苦しみもアンには三倍も強く感じられた。これを見ているマリラとしては、アンが運命の浮き沈みの中で、どんなに激しい苦しみをしなければならないかと思うと、言いしれぬ不安を覚えるのだった。マリラには、苦痛が激しく感じられる心には、よろこびもそれだけ強くこたえるものであり、それでじゅうぶんつぐないはついていくのだということが理解できなかった。
L.M.モンゴメリ『赤毛のアン 第二十二章 アンお茶に招かれる』(村岡花子訳)
感度が高ければ、辛さもなお、強く感じられる。
この世への滞在時間が長くなるに連れて解ってくるように、人の世にあふれるのは、喜びや美しさよりも、悲しみや苦しみや醜いものの方がずっと多い。
実際、シリーズの中でもアンはこの後の人生で、決して癒えることのない傷を負い、再び笑うことが出来るようになっても、「その微笑には今までかつてなく、また今後永久に消えることのないあるもの」が伴うようになります。
それでもやっぱり、その強すぎる感受性は、宝物でもあるということ。
「よろこびもそれだけ強くこたえるものであり、それでじゅうぶんつぐないはついていく。」
そしてきっと、感じるということそのものが、体を持って生きている今だからこそ、出来ること。
身体があると楽しいこともいっぱいありますよ。まいはこのラベンダーと陽の光の匂いのするシーツにくるまったとき、幸せだとは思いませんか? 寒い冬のさなかの日だまりでひなたぼっこしたり、暑い夏に木陰で涼しい風を感じるときに、幸せだと思いませんか? 鉄棒で初めて逆上がりができたとき、自分の身体が思うように動かせた喜びを感じませんでしたか?
梨木香歩『西の魔女が死んだ』
「西の魔女が死んだ」の主人公、まいは、魔女であるおばあちゃんと暮らすようになったある日、死んだ後のことについて、問いかけます。
その会話の中で、その日、野犬に殺されてしまった鶏のことを思いながら、「身体を持っていることって、あんまりいいことないみたい。何だか、苦しむために身体ってあるみたい」と呟いたまいに、おばあちゃんはこう答えます。
魂は身体を持つことによってしか、物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会が与えられたのですから。
彼女を愛する母親にも「扱いにくい子」「生きにくいタイプの子」「感受性が強すぎる」と言われてしまうまい。
まいもまた、「ほかと同じではない子」で、あるきっかけにより、中学に入って間もなく、登校拒否になります。
生年月日が非公表のため、梨木香歩さんのホロスコープは解りませんが、
これは間違いなく、「海王星型の人が、この世をどう生きていくか」を教えてくれている物語。
外的な刺激に圧倒されやすかったり、一般的には気付かれないような些細なことを感じ取り過ぎてしまう人たちが、地に足をどっしりと付けて生きていくための方法がここにはあると思います。
いちばん大事なことは自分で見ようとしたり、聞こうとする意志の力ですよ。自分で見ようともしないのに何かが見えたり、聞こえたりするのはとても危険ですし、不快なことですし、一流の魔女にあるまじきことです。
うねる感受性の波に、巻き込まれながら、それでも難破せずにこの世界で生きるには、
何を感じるかを己の意志で決めること。
それは、魔女であるおばあちゃんでさえ、
おばあちゃんはさっき、上等の魔女は、外部からの刺激に反応しない、って言いましたね。でも、それを完璧に遂行するのは無理です。正確には、上等の魔女ほど、外部からの刺激に反応する度合いが低い、と言うべきでした。なぜなら、肉体を持っている人間なら、だれでも傷を負ったら痛いと思うし、風邪をうつされて高熱が出たら意識が朦朧としてくるでしょう。
というように、人が、感じる体を持った生き物である以上、あまりに難しく、
そして、苦しみや痛みの多い世界で、感じる心の壁が薄ければ、より簡単に難破しそうになり、
その痛みは激しさを増し、増せばもう、感じるのはイヤだ、と目をとじ、耳をふさぎ、
世界と自分とを隔絶したくなってしまうけれども、
私達は、この世界でしか感じる事の出来ない事を感じるために、
痛むことの“出来る”体を持って、ここに生まれてきたから、
ならば、月と海王星がもたらす素質は、宝になりうるのかもしれない。
ただ、その使い方を少し多めに学ぶ必要はあるだろうけれど。
「涙」や「幻想」であると同時に、「溶解」「許し」を象意とする海王星が望むことは、
この世と自分とを「わけ隔てる事」ではないはず。
きっと、あの青い星が、真から望むことは、
溶け合い、響き合い、互いの心を、知って、解って、感じ合うこと。
詩や、音楽や、花たちの美しさに力を借りながら、この世界を歩いていこう。
それが月と海王星の持つ“可能性”なんじゃないか、今は、そんな風に思います。
このままだっていいんだよ 勇気も元気も生きる上では
無くて困るものじゃない あって困ることの方が多い
でもさ 壁だけでいいところに わざわざ扉作ったんだよ嫌いだ 全部好きなのに
BUMP OF CHICKEN『プレゼント』
--
関連書籍、関連音楽もろもろ
0コメント