神経質で全身これアンテナな『乙女座』にあり、
その乙女座が、土地エネルギーを吸収しやすいと言われる『4ハウス』にあたり、
そしてさらには、境界線を溶かす『海王星からのハード』を喰らってる状態という、
星の理論上、私の月は、「過敏性エリート」です。
ですが私は自分自身のことを「過敏」だとか「繊細」だとか思って生きてきたわけではなく、それどころか、
自分で自分の事を過敏だ、過敏だって主張するのってイタい気がするけどな。
なんて思っていました。
「赤毛のアン」シリーズの最終巻「アンの娘リラ」の中で、
主人公リラを裏切ったアイリーンという登場人物が、
「あたしもああいうふうに悠然と構えていられたらいいと思うわ――
でも、あたしはそういうふうにはできていませんもの。
あたしってそりゃあものに感じやすいの。」
と、リラの陰口を叩く場面がありますが、
正直なところ、この台詞から読者が受けるような印象がそのまま、
「『感じやすい人』を自称する人間が周囲から持たれる印象だ。(気をつけろ!)」
と思っておりました。
ここ数年、「HSP(Highly Sensitive Persons)」という概念が流行っているし、
書店でも「繊細すぎて生きづらいあなたへ」的な本はしょっちゅう見かけます。
このHSP本、本当に生きづらさに困っている人が手に取って、
「ああ、私はこういうタチだったんだ。
必要以上に周りの足並みに揃えようとまでしなくてよかったんだ」
と、それまで傷ついていた心を癒す傷薬にしたり、
「私は感じやすいタチらしいから、こういう対策を取っていけばいいんだ」
と活用する分には、非常に有益なことだと思います。
が、こういうカテゴライズの何が厄介って、まあこれは人間全般的に陥りやすいワナでしょうが、
「私って、と・く・べ・つ☆」のマジックにかかってしまう、というところかと思います。
このHSPに関しても、「HSPと非HSP」を過度に区別し、
「非HSPには理解出来ないでしょうけど…」
「HSPは優しいけれど、非HSPは鈍感だから平気で人を傷付ける」
なんて書き方をしているブログが散見します。
それにぶち当たるたびに、私はまあ、言ってしまえば
イラッ(#^∀^)
としてしまっておりました。
これが「自分で自分の事を過敏だと主張するのはイタい気がする」と思ってしまう
一番の原因かと思います。
HSPの研究そのものは、なかなか画期的なものだと思いますし、
確かに、大多数(マジョリティ)が適応出来るものに適応出来ない
「過敏というマイノリティ」が存在するのは事実だとも思いますし、
そうした人々が世の中に、生きづらさを理解してもらうための糸口にはなるかもしれないとも思います。
マイノリティであり、過敏であることによる不便も多いために、周囲から理解してもらえず、
それどころか「強くなれよ」と無理強いをされたりして、とても苦しい思いをした人もたくさんいるでしょう。
だから「解って!」って叫びたくなるのはよく解る。
「みんなが同じだと思わないで」
「自分が出来たことだからといって、私にも出来るなんて思わないで」
って。
それはよく解ります。本当に。
大体、ドッジボールをクラス競技にする意味なんか全く解らないし、
内向的な人間に「社交的になりなさいよ〜」って言ったところで、無理なもんは無理ってなもんだろうが!
ドッジボールをしたい人はすればいいと思うし、プロならいくらでも応援するよ。
でも運動音痴のひ弱にとっては、ただの恐怖の時間でしかないんだぞこら!
代わりに、内向的な人間がどんだけ内側に創造エネルギー秘めてるか知ってるかこら!
なんだったら逆のことが出来るのか、ってんだ。
外で遊びたいエネルギーがあふれてる人間に、家にこもってコツコツ創造的作業が出来るかね? ああん??
そうした思いは私も嫌というほど抱えてきた。
「よかれ」と思って自分の生き方を強いてくる人間の傲慢さに、どれだけ辟易してきたか。
私は、共感するときに「解る」という言葉は基本、使いたくないと思っているけれど、
今日は使います。
「よく解る。」
でも本来、おそらくHSPという概念を考えだしたアーロン博士は、
HSPという定義を、自分を世の中から隔絶して、内にこもるための言い訳として生んだわけでも、
まして、HSPであるということを特別視するために生んだわけでもないはずだと思うんです。
感じやすいということは、「人より優れた素質」ではなく、「ただ、そういう素質」だと理解したい。
自分を周りより優れたものとしてしまえば、愚か者に囲まれた世界にいるのだと思って生きることになってしまう。
……なんてのは、中島みゆきさんもそんなことを歌っていましたっけ。
そこに諦めや、失望による壁を作るでもなく、
そこに同化を強いる不法侵入を認めるのでもなく、
いろんな人がいる世界で、「ただ、たまたま過敏に生まれたわたし」が、
「その素質を活かして」人と手を繋いで生きていけたら、
同時に、マイノリティにマジョリティ化することを強いることなく、
「そうである者」がいるのなら「そうでない者」がいるのも当たり前だということを、
当たり前のように受け容れていけたら、
そうやって、この地球が回っていけば、最高だと思う。
……さて、とりあえず、「過敏」を名乗ることに対する曖昧な感情をある程度、言語化出来たので、
次回からは、思う存分、自分の過敏的な特徴の話をふっ切ってやっていきたいと思います!(笑)
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参考図書
(なお、今日の写真は十年以上前に私が撮ってきた、シャーロットタウンの灯台!)
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